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ムーミンの作者の生誕百年だそうで、私の通る駅ビルや商店街でも、あちこちの店にムーミングッズが置いてある。足を止めるとうっかり買ってしまいそうで、警戒している。
そこへ姉の携帯からメールが来た。「××駅の構内にムーミンの店が出てる。たぶん期間限定で。何日までかわからないから、ほしいものがあったら買っておくよ。スヌ君もある」。
最後の一文にのけぞった。
ヤラレター。私の秘めたる少女趣味のどまん中を射貫かれた。何を隠そう、スヌ君とは私がかつて自分のぬいぐるみにつけていた呼び名なのだ。
よそでは口が裂けても言わないが、子どもの頃の私はぬいぐるみを溺愛していた。一代目がムーミンだ。水色のタオル地でできたもの。
スヌーピーのぬいぐるみにも憧れていたが、高くて手が出なかった。一九七〇年頃で三千六百円! 輸入品で、当時は一ドルが三百六十円の固定相場制だったからどうしようもない。固定相場制なんてものが外貨にあったことをリアルタイムで知っているのも、ある年齢以上の人でしょう。
代わりがムーミンのぬいぐるみ。ムーミンも本で親しんでいたし、顔の形や体型がスヌーピーと似ていたし。溺愛しすぎて汚れて何度も洗濯し、縫い目がほつれてついに限界に。
二代目として、ついにスヌーピーを買ってもらう。布団に入れるのはもちろんのこと、外でも自転車のかごに乗せて駆け回っていた。
背伸びしがちな若者の頃は、そんな話は誰にもせず、自分でもいつしか忘却のかなた。姉のメールは過去から一直線に飛んできた思い出の矢だ。姉は「スヌ君」と呼んでいた私を知る、今となっては唯一の人である。
ムーミンとかスヌーピーとか、この前行った「ぐりとぐら」展とか、かわいいものにひかれる理由を得心できた。単に、目にして気持ちいい、というかわいさではない。懐かしさ。二度と戻らぬ日々へのいとおしさなのだ。あの頃住んだ、今はなき家。もう会えない誰かれが生きていた頃。幼いなりに悩みは抱えていただろうけど、多くを背負ってはおらず、何よりも無限大とも思える時間が先々にまだあった頃。
年がいもなくひかれる、のではない。年をとったからこそ、ひかれるのだ。この年だからこそ「かわいい」に、その言葉だけでは言い表せない滋味を、歳月が与えているのである……って、かわいいものをほしくなるのを、自分で正当化していますが。
姉には「見てから買う」と返信。一種類のぬいぐるみしかなかった頃と異なり、今はスヌーピーでもいろいろな商品が作られていそう。思い出の中の顔と違うと残念なので、ここは慎重に。期間限定のその店を逃しても、またどこかで会えることを祈って。
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