「好き嫌い克服させなきゃ教」の信者だった 「好き嫌い克服させなきゃ教」の信者だった 娘が幼い頃、わたしは〈好き嫌い克服させなきゃ教〉の信者だった。ある雑誌で、親子料理企画の打ち合わせをしたときのこと。集められたたくさんの親からのアンケートには、子どもの偏食についての悩みがあった。うちの子はにんじんが嫌い、ピーマンがきらい、ねぎが嫌い、葉野菜が嫌い、細かくした野菜も目ざとく見つけて絶対食べてくれない、とにかく野菜がいっさいダメなんですと訴えるように実情が書かれていて、どのコメントからも、書いている親たちのため息が一斉に聞こえてくるようだった。当時はわたしも悩める親その1だったので、わかりみが深すぎて、思わずうなずきまくって首がもげそうになっていた。多少の好き嫌いはしかたがない、と割り切れる親はいい。そうはいってもやっぱり気になってしまってつい……と、頑張ってしまう親の方が多いのだ。だって、好き嫌いはないほうが栄養的にもよさそうだし、いろいろなものを食べられたほうが、その子どもにとってプラスになる気がする。そんなこんなで好き嫌いはなくしてあげたい。親とはいつも、子どものことを過剰に考えてしまうものなのだ。 心のよりどころになった名著『育児の百科』 でも、そんな〈好き嫌い克服させなきゃ教〉の信者だったわたしが、そんなのやーめたと思えるようになったきっかけがあった。まだ娘が幼かったころ、わたしの育児の指標かつ心のよりどころとしていた本の一説だ。その本とは、子どもの医学に精通されていた松田道雄先生の『育児の百科』(岩波文庫)。1967年から版を重ね、いまなお支持の高い育児書の大ベストセラーだが、その下巻(1歳6カ月~6歳)の「子どもの偏食」(4歳から5歳まで)という項目の文章に、親のついあせってしまう気持ちを、冷静かつやさしく諭す個所がある。松田先生らしい言葉が並んでいるので、ぜひ読んでほしい。以下抜粋。~子どもが偏食するのを、気ままをいうわるい子だときめつけるべきでない。また、母親として子どものしつけをあやまったと、自分をとがめるべきでもない。人間には、食物について好ききらいのある人の方ほうがおおい。ある特定の食べものがきらいだということは、おとなにとっては、あまり問題でない。玉ねぎのきらいな夫は、妻が玉ねぎを煮ても、食べずにのこすだけだ。玉ねぎのきらいな妻は、玉ねぎを煮ないだろう。人間は、よそのめいわくにならぬかぎり、自分の好きなものを選んで生きていけばよい。子どもにかぎって、食物の好ききらいが偏食などといって、とがめられねばならぬのは、なぜか。これは母親の「栄養学」と、その道徳的信念による。(中略)うちの子は、なんでもいただきます、という近所の母親の言葉を信じているだけだ。~書かれた時代が昭和のど真ん中であり、育児は母親の仕事と考えられていた昔の本なので(いまもそれほど進歩していないが)、子育ての担い手を〈母親〉と書いている。いまなら松田先生は〈親〉と書き直す気がするが、ここは原本に忠実にしておく。さらに抜粋。~「偏食の矯正」に成功したという「美談」は、子どものきらいの程度がそれほどでもなかったか、次第に成長して好みがかわったか、または、子どもが耐えがたきを耐えているかだ。おおくの偏食の矯正は、子どもが食べられるようになったということを成功としている。けれども、20年も30年もたってからしらべると、その人間が自由意思で食べられるようになると、もとにもどっている。~さらに抜粋。今回は松田先生の本の抜粋で終わってしまうかもしれないが、読む価値があるので、ぜひ。~人間は忍耐をまなぶべきである。しかし、食事というような基礎的な生理でそれを訓練することは、賢明とはおもえない。食事は、生きる楽しみとして、楽しくおいしく食べる方がいい。その方が消化もいい。~そう。食事は、生きる楽しみとして、楽しくおいしく食べるほうがいいのだ(おー!)。そして、食事においていちばん大切なことについても、松田先生はこんなふうに書いている。以下抜粋の続き。~子どもがよろこんで食べるものを与え、いつも楽しい話をしながら親子で食卓にむかうようにすれば、ほかで親子がうまくいかないことがあっても、食事の楽しみのなかで忘れてしまう。家庭は、人間がはだかで争うこともあるところだから、心のしこりをときほぐすクッションをいくつも用意すべきだ。~『定本 育児の百科』全3冊セット(下)一歳6ヵ月から 松田道雄 著(岩波文庫)より、抜粋、引用 「塾前じゃないごはん」が生まれたきっかけ この文章を読みながら、幼い子どもを悩みながら育てていたわたしは、思わず先生に抱きついていた(妄想で)。そうか、食事の時間は、心のしこりをときほぐすクッションになるんだ。そしてそれは子どものためだけじゃない。わたしのクッションでもあるべきだ。だってわたしにも必要なのだから。この一説から、わたしの食事のあり方、つまり現在の塾前(&じゃない)ごはんの基本理念が生まれたのだった。食事の時間は、心のしこりを解きほぐすクッションタイムでありたい。そして食事は、生きる楽しみとして楽しくおいしく食べたい。これまでも、そしてこれからも、食事の時間の役割はこれに尽きる。たとえ一人で食事をするときでも、だ。それ以来、わたしはできるだけ自分と娘の好きなものを食卓に出そうと考えるようになった。ときにはいたずら気分で、娘の嫌いなゴーヤーやセロリのおかずをおまけで作ることもあったが、案の定彼女はまったく食べない。そしてわたしだけのワインのつまみとなるのだった。でもそれでよかった。ほらこれもそれもなんでも食べなさいと目くじらを立て、あげく自らも疲弊するような無駄な時間は消えたのだった。ちなみに松田先生は、いろいろ試みても野菜がダメなときは、野菜の代わりに果汁を与えておけば、栄養上は差し支えない、とも書かれている。ああ、先生(感涙) 「ぐるぐる食べ教」からの思わぬ反撃? 〈好き嫌い克服させなきゃ教〉の信者をやめたある日の夕ごはんタイムに、こんなことがあった。仕事から戻り娘を保育園から連れて帰り、大至急夕ごはんを作り終え、とりあえずワインを飲みながら、お疲れ自分と唱えつつ晩酌用に小皿に盛った青かびチーズをつまんでいた。すると当時4歳の娘に「お母さん、同じものばっかり食べちゃダメだよ」と厳重注意されたのだ。そのころ彼女は保育園で、ご飯とおかず、汁ものを順繰りに食べる〈ぐるぐる食べ〉を教えられていて、彼女は〈ぐるぐる食べ教〉の熱心な信者になっていたのだった。いやこれはお母さんの晩酌のおつまみだからさ、とか、お母さんのいただきますはまだ本格的には始まっていないのですとか、そういう理屈は大人の言い訳であり、彼女には通用しない。食卓に着いたら、ルールはきちんと守ってもらわねば困る。意外にも娘は規律に厳しいたちで、わたしがぐるぐる食べを実行するまで指摘をやめなかった。しかたなく、ワイン、青かびチーズ、おかず、ご飯のぐるぐる食べを余儀なくさせられたのでした。おぬし、スパルタ育ちか。家の食事時間は心のしこりを解きほぐすクッションタイム。親子でホルモン大航海時代を航海中のいま、再び松田先生の言葉をしみじみかみ締めている。心のしこりを解きほぐすクッション、プリーズ(そして頑張ろう船員たち!)。 今回の塾前じゃないごはん ピーマンサルサのポークソテー 見慣れた野菜をただ刻んで混ぜただけ。なのに軽くてうまみがあって、爽やかなサルサ。スペイン語でソースの意味です。とくにこれからの季節、肉を楽しむならピーマンサルサをぜひ(決して野菜嫌いを克服するメニューではないので、野菜が嫌いな人には肉だけ出してあげてください)。ポークソテー以外にも、鶏でも牛でもソーセージでもよし。焼いた薄切り肉にふりかけて葉野菜やタコスで包んでもいいし、マッシュしたアボカドとサワークリームとサルサを混ぜればワカモレの完成。チップスにつけて食べるだけでも、とんでもなくおいしい。サルサは南米を中心に多様なレシピがありますが、ピーマンの青い苦みがきいていると味にしまりが出るので、ピーマンは多め推奨です。しかもこのピーマンサルサ、ひき肉と炒め合わせれば名もなきパスタソースになるし、冷やご飯とハムなどを加えて炒めればピラフにもなる。冷蔵庫の中にあると、なにかと頼もしい存在です。ピーマン2個、トマト1個、玉ねぎ1/2個、にんにく1かけはすべてみじん切りにし、ボウルに入れてハラペーニョソース(タバスコでも)を加え、味をみて塩で調える。全体がしっとり混ざったら完成。冷蔵庫で3、4日は大丈夫。加熱利用するなら、冷凍しても。ポークソテーは豚肉の両面に塩をふり、脂身からこんがり焼く。皿に盛って黒こしょうをひき、たっぷりとサルサをかける。白ワインがすいすいすすむ、けしからんひと皿です。 馬田草織文筆家・編集者・ポルトガル料理研究家。出版社で雑誌編集を経て独立。ポルトガルの食や文化に魅了され、家庭料理からレストラン、ワイナリーなど幅広く取材している。ポルトガル料理とワインを楽しむ教室「ポルトガル食堂」を主宰。著書に『ムイト・ボン!ポルトガルを食べる旅』(産業編集センター)、『ホルモン大航海時代』(TAC出版)などがある。一児の母。インスタグラム @badasaori