ミュージシャンで文筆家の猫沢エミさんは、現在パリ在住。猫沢さんといえば、SNSやエッセイで紹介されるおいしそうなごはんの数々「#猫沢飯」が話題です。
オレンジページnetではこの春、そんな猫沢さんによる新連載「マダム・サルディンヌのおいしい処方箋」がスタート!
WEBやSNSで募集したみなさんからのお悩みに、マダム・サルディンヌ、こといわし大好きな猫沢さんが、パリからエスプリたっぷりにお答えします。
今回は連載開始を記念し、猫沢さんに近況インタビューを敢行。
愛猫・イオをがんで亡くすまでの最後の日々をつづった新刊『イオビエ ~イオがくれた幸せへの切符』の話や、日々の食生活やフランス暮らしの話、連載への意気込みなど、人柄がにじみ出る素敵なトーク内容を、2回にわたってお届け!
笑顔も涙もあるけれど、それこそが人生。そう思わせてくれる猫沢節に、自分らしく生きるヒントをもらえます。
猫沢さんは、現在二度目のパリ在住。短い来日のタイミングをねらってキャッチ! 前編は新刊の話題を中心に伺います
笑顔で生きていくため、だれでも心に自分なりの神様を持っていい
――新刊『イオビエ ~イオがくれた幸せへの切符』では、道端に捨てられ倒れていた猫をイオと名づけてともに暮らす幸せな日々、そしてがんを患ったイオちゃんと猫沢さんの戦いの日々がつづられています。私自身、イオの思い出と向き合ってこの本を書くのは本当に苦しい作業ではありました。でも昨年2月にパリに引っ越して、イオを亡くしたマンションの部屋と物理的に離れたら、あの日々を俯瞰で見ることができて。どう考えても、イオと暮らした1年半は幸せだったなと思えたんです。
日本だと〈死〉はすごく悲しくて暗いものとされがちだけれど、〈死〉を考えることで、その手前にある〈生〉をどう生きるべきかわかることもある。
それにもし自分が逝く側だったら、残された人にはやっぱり笑顔でいてほしいですよね。
こういう〈死〉のとらえ方、愛する者への思いの残し方があるよというのをまとめたら、〈火サス〉の鈍器か『コロコロコミック』か、っていうくらいの分厚い本になってしまいました(笑)。
――なんたって全400ページも! イオちゃんの視点でつづられる物語に、猫沢さんの日記やエッセイ、さらにSNSでも発信されている「#猫沢飯」のレシピなど、内容も盛りだくさんです。
イオちゃん視点の小説部分は、本当にイオちゃんに語りかけられているようでした。さっきも他の出版社の編集さんに「猫沢さんがイタコとして書いてるんですね」なんていわれました。
でも三章、四章あたりを書いている途中で、急に視点がイオでなく私になっちゃったときがあって。もう、恨み節が炸裂。イオを捨てた元飼い主に対する恨みや、無理やりな対応をする動物病院への怒りが噴出してしまったんですよ。
そういう負の感情は捨てようと思ってやってきたのに、まだこんなに残っていたのかって。愛があるからこそ出てくるものだけれど、これではイオの高潔さを汚してしまうと思って、とにかくバーッと書いて、書いたものをザッと削って。
たぶん、あの感情を捨てるために無駄書きが必要だったんじゃないかな。余計なものをパコンと捨てて気がすんだら、イオのイタコに徹することができました。
でもこの本を「読むとつらくなりそう」って、なかなか読みだせないかたもいるみたいで……「大丈夫ですよ、笑えるサブキャラとかめっちゃ出てくるんで」ってなだめてます(笑)。
イオのガンが発覚したころ、イオ、ピガ、ユピの3匹の猫と住んでいた東京のマンションにて/撮影 関めぐみ――イオちゃん視点の小説内に出てくる神様たちは、なんとチャラ男キャラですよね。思わず「何者⁉」って笑ってしまいました。私の中の神様像ってあんな感じなんですよ(笑)。そもそも私は若いとき無神論者で、宗教もどちらかというと否定的だったんです。
でもそれは若くてだれかを失うような経験をしていなかったから、神は必要なかったということ。すごく幸せだったんですよね。
今失いたくない人たちをどんどん亡くして、それが年をとることの一つの側面なんだとわかったら、やっぱり笑顔で生きていくために、何か心の指針となるものが必要なんだと理解できました。
キリストもブッダも、彼らがそのとき必要とされた歴史や社会的背景があったはず。だったら私だけの神がいてもいいんじゃないかって。
イオは猫だけれど、私にとっては女神のような存在。会ったことのないキリストやブッダよりずっと信頼できる、私を照らしてくれる心の支えです。
――初代飼い猫・ピキちゃんとイオちゃんは、お骨になって猫沢さんといっしょにパリで暮らしています。お骨を家に置いたままにすると成仏できないとか、納骨しないとこちらの心が離れないとかいってくださるかたもいました。
もちろん私を気づかっての言葉だと思いますし否定はしませんが、私だったら、じめっと暗いアパルトマンみたいな墓石の下の穴に、先々々代のおっかないおばあちゃんとかといっしょに入れられて、「なんかすみません……」って感じはやだなあって(笑)。
定型ではない、自分なりの弔い方があっていいと思うんですよ。
離れよう、葬ろうとするから、〈死〉がとても寂しくてつらいものになってしまうけど、それよりもいっしょに暖かい部屋で生きて、いつかいっしょに逝けばいいじゃんて考え方があってもいいんじゃないかなって。