9月10日 相手のせいにする前に

年とともに「他罰的」
  知人から失敗談のメールが来た。注文したつもりの商品が届かず、発送を忘れてるんではと問い合わせたら、実は注文していなかった。「年とともにますます他罰的な私」という結びの言葉に、「ああ、わかる」。他罰的とはひらたく言えば、自分以外のせいにすること。私も思いがけないことが起きるとよく、自分を疑うより先に、相手の対応のしかたが不完全なのではという気がして、心穏やかでなくなってしまうのです。先日もそれで大失敗しそうに……いや、したかも。経緯が少々複雑ですが、書きますと。
  Aの持病で父が入院、治療した。退院の日、看護師さんから説明を受ける。薬は特にないとのこと。入院前Aの薬は、近所のかかりつけ医にもらっていた。今後は飲まなくていいのかと尋ねると、「もうひとつの持病のBの薬だけ、かかりつけ医の先生に引き続き出してもらって下さい」。そう聞いた「つもり」だった。
私が間違うはずがない?
  帰ってすぐかかりつけ医に行って報告。病院からの手紙を渡す。かかりつけ医が書いてくれた処方箋を、薬局に持っていくと、出てきたのはA、B両方の薬。
  「かかりつけ医が処方箋を間違えたんでは」とまず思った。薬局から確認してもらうと、先生に電話口へ呼ばれ、「病院の手紙には、これまでの薬を継続して出すよう書いてあります。こんな不確かなことでは薬は出せません。もう一度病院で聞いてきて下さい」と言われてしまった。
  そのときの私の心中は「看護師さんの説明か、病院からの手紙か、どっちかが間違っている」。自分以外の誰かのせいと、まだ思っているのです。だって私が聞き間違うはずがない、入院を経験している、この種の説明を受けるのもはじめてじゃない。一方で「近頃は信じられないうっかりミスをすることもある。こんなだいじなところで早とちりや思い込みをしていたなら、私、相当まずいな」とじんわり恐怖もわきました。
だいじなことは
  病院に電話し、説明してくれた看護師さんと話し、主治医に確認してもらう。結論は「AB両方の薬を、かかりつけ医に処方してもらう」。かかりつけ医のところへ戻って詫びを入れながらなお、「私は悪くなーい」という声なき叫びが胸のうちにこだましていた。 でも頭を冷やせば、自分にも落ち度はある。看護師さんの説明を聞いたとき、Aの薬を止めていいなんて変だなと、なぜ思わなかったか。かかりつけ医の処方箋を薬局に出す前、なぜ確かめなかったか。
  そもそも「私が正しいかどうか」なんて、事の本質と全然関係ない。だいじなのは父が適切な治療と投薬を、病院とかかりつけ医、二つの機関で今後もスムーズに受けられること。それを自分のけちくさいプライドのため……。
  うっかりミスやもの忘れは、今後もたぶん多くなるだろうに、人生経験が変にあるぶん「私が~はずがない」と頑張ってしまいがち。気をつけようと、深くうなだれたのでした。
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イラスト/松尾ミユキ 人物写真/安部まゆみ