整形外科医・古島弘三さん
ふるしま・こうぞう/群馬県生まれ、在住。弘前大学医学部卒業後、同大学整形外科に入局。弘前大学関連病院を経て、慶友整形外科病院勤務。現在は、同病院の副院長・整形外科部長・慶友スポーツ医学センター長などを兼任し、小学生からプロ選手まで野球障害の治療にあたっている。プロ野球選手か、医者になりたい!
群馬県館林市にある慶友整形外科病院には、全国各地から、野球によるスポーツ障害で多くの患者が訪れます。この病院で肘関節の腱や靱帯を再建するトミー・ジョン手術を多く執刀しているのが、副院長の古島さん。同手術における日本屈指の名医として知られています。群馬県出身の古島さんは、自身も小学校から高校まで野球に打ち込んでいました。
「小さいころから外で遊んでばかり。小学3年から少年野球を始めました。勉強は全然しなかったし、親からも『勉強しなさい』と言われることはありませんでした」
小学3年のとき、通知表の成績が体育だけ5で、あとは全部2だったこともあるそう。
中学2年で「立志式」という行事があり、将来の目標を掲げることになりました。そこで「プロ野球選手か医者になりたい」と書いたという古島さん。
「プロ野球選手になりたかったけど、なれるのはごく一部。兄が医師をめざしていて、僕も野球でよくケガをして病院に通っていたので、医師を身近な職業と感じていたのかもしれません」
高校に進学し、甲子園をめざして野球を続けていましたが、夢はかなわず、3年生で引退することに。「気持ちを切り替え、勉強に本腰を入れることにしました」。
幼いころに父を亡くした古島さんは、経済的な理由から、学費が安い国立大学をめざします。しかし、現役では合格できず、2年浪人することに。
「小学校から高校まで塾に行ったことがありませんでしたが、浪人中は予備校に通い、一日12時間は勉強しました。友達と遊ばず、ひたすら勉強。あのころには戻りたくないですね(笑)。でも、あれだけ勉強に集中できたのは、野球を一生懸命、夢中でやってきたおかげだと思います」
野球の経験が今に生きている
そして、弘前大学医学部に合格。元来、スポーツ好きの古島さんは「野球とは違う個人競技をやってみたい」と大学のゴルフ部に入部します。「お金がないのでゴルフ場でキャディをしてアルバイト代を稼ぎつつ、お客さんが利用しない時間帯にコースで練習させてもらいました」
野球同様、ゴルフにも熱中し、やがて本気で「プロゴルファーになりたい」と思うように。ちょうどそのころ、偶然キャディでついたのがプロの中嶋常幸さんでした。
「中嶋選手にプロゴルファーになりたいと思っていると伝えたところ、『僕が君の立場なら医者になる。賞金王になったけど大変だよ』と。その後、著名なゴルフメーカーのアワードを受賞したりもしましたが、中嶋選手の言葉が心に残って、初志貫徹、医師をめざすことにしました」
当初は心臓外科医になろうと考えていた古島さんでしたが、ゴルフ部の部長で整形外科医である恩師から「整形外科医にならないか?」と誘いを受けます。
「このころから、スポーツ選手のケガを治療するスポーツ医学が広まりつつあり、興味を持ちました。先生のすすめもあり、大学5年のときにその道に進むことを決断しました」
その後、現在勤める病院の伊藤恵康名誉病院長と出会い、指導のもと、トミー・ジョン手術の経験を積んでいきます。
かつて野球少年だったからこそ、無理を続けて故障してしまった選手の気持ちがわかるし、医学でサポートできる。古島さんは多くの野球選手を治療する一方で、野球指導者に向けてスポーツ障害を予防するための啓発活動にも力を入れています。
「野球選手の故障は、だいたい小学生から中学生の成長期に無理を重ねてきたのが原因。指導者が選手たちの将来を考え、適切な指導や練習をしていれば、ケガに苦しむ選手を減らすことができます。いずれ僕がトミー・ジョン手術をしなくてもよくなるときが来ればいいと思っています」
医師になるためには、幼いころから勉強をたくさんしないといけない、と思われがちですが、古島さんは「何をするにも、自分でやりたいと思って、自分から進んで取り組むことが大切」だと話します。
「スポーツも勉強も『うまくなりたい』『もっと高いところをめざしたい』と自分自身で思うことが大事。僕も野球に打ち込んだことで、集中力が養われ、体力がついて、今も元気に仕事ができている。一生懸命やってきたことが、今につながっていると感じています」